美しき町 ♯05 |海老名 by kono yurika

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2020年夏。

設計を行う友人に誘われて、彼らの設計する海老名の家に遊びに行ったのは一度目の緊急事態宣言明けの6月だった。建築家、写真家・舞台作家、映画監督、俳優、音楽家、ダンサーが集まり、その家の共同設計を行うための期間限定の共同生活をしていた。

薄緑色の外壁がユニークなその集合住宅は全部で六棟あって、部分的に各棟が連結されて一個の塊みたいになっている。すぐ裏手には山が迫っていて、窓を開けると庭と思われるスペース(放置されていて、腿の高さまで雑草が生い茂っている)にUFO型のバーベキューコンロが置いてあったり、ゴミ捨て場の表記が英語だったり、前の住人の気配も少し残っていた。

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9人で生活しているのに(夏はもうすぐそこ)、その家には冷蔵庫がまだなかった。

冷蔵庫を近くのリサイクルセンターに買いにいくための散歩についていく。ギターを肩にかけた俳優がギターを弾いたり弾かなかったりしたし、近くのサービスエリアが菊竹さんの設計だという話をぼんやり聞きながら歩いて、途中の公園で色が綺麗なタマムシがひっくり返っていたのをみんなで眺めたりしていた。私はやたらまっすぐな道がその地域を貫通していることと、やたら長くて目を引く高速道路の遮音壁が蛇みたいにそこにあることが気になってしょうがなかった。

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ふと歩いているとき、家と家のあいだ、道と道のあいだ、林や薮の向こう、坂を登ったあと、どこからでもその遮音壁は見える。そしてその向こう側が見えない。大きな蛇のようにひっそりと緩やかな丘陵の地形にうねり横たわり、中からはヒュンヒュン、ゴゴゴゴと、機械の音が聞こえている。その表皮の真横でごく普通に生活を反復、継続している住人がいる。

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湘南クッキーの自販機と白い大型犬の置物が入り口に置かれているリサイクルショップに着いて無事に冷蔵庫を調達し、その冷蔵庫は手でなんとか持って帰れるくらいの大きさなので、持てそうな3人が交代しながら持って帰る。交互に冷蔵庫を手渡しながら畑の沿道を歩いている彼らの後ろから、彼女たちがギターを弾きながらついていく。訪問者に向けられた演劇の上演を見ているような気持ちになる。

近所のスーパーに夕飯の食材の買い出しに寄る。コンロが一つしかないから何を作るべきか、枝豆を茹でるのを諦めるかどうするか彼女たちが迷っている。友人がサービスカウンターに座ってスーパーのポイントカードを作っている。菊の入った仏壇用の切花がセロファンに包まれて並んで売っている。線香とお中元売り場の匂い。それらを外から自動ドア越しにぼーっと眺めて待っている。ここ数ヶ月、同居人以外の他人とスーパーに行くことなんてなかったので、これは生活の振る舞いなのだと思い知る。

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数ヶ月前とは違う、他人との距離感。同じ空間で生活をする人との距離感のことを考える。一緒にいるための理由がなければ一緒にいてはいけないような気がしたし、なぜ一緒にいるのか、生活を一緒にしているから距離が近くても許されるのか。都市から離れた場所ならいいのか。

人がその場所で生活を営むことは土地にとってどんな意味があるんだろうか。人と土地との距離感はどうなのか。生活の演技、建築の演技、土地の演技。そこかしこでの何かによる振る舞いが生活になる。

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それからしばらくその土地のことを考えていた。大きな蛇とその気配の真横で行われている生活のこと、亡霊のような住人たちのこと、真っ直ぐな道のこと。また何度か訪れては写真を撮った。住人たちは想像よりも遮音壁の中と外を自由に行き来していたし、夏に向かうにしたがって壁沿いの植物たちは壁に大きく這って自分たちの都合のいいように光合成をしている。あの家には別の友人が住み始めたり、工事が始まったり、穴が空いたり、人が訪れたり、雑誌が印刷される拠点になったり、そうして今年の春には家も完成したりした。

土地全体が毎日少しづつ外からやってきた外来種と混ざりあっていく過程を見ているようだった。抵抗して、変遷して、移動して、取り込んで、荒地のような、手入れされた庭のような、ときおり明るい場所なのかもしれないなと思う。

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